弥生末期の船、および航海術

          末廬国の良港
 

 この問題を取り上げるのは、例えば、北九州から投馬国(西都市)まで行くのに「二十日かかった」、それは時間がかかりすぎではないか?という疑問に答えるためである。

 当時朝献をするためには対馬海峡を渡り大帯郡(現在の平壌あたり)までは船で行ったであろうし、魏の使者が来た時も、使者が中国から乗ってきた船は末廬国に繋留しておき、あとは倭の船で水行計三十日もかけて邪馬台国へ行っている。

 従来「何故魏の使者が直接目的地伊都国へ行かず末廬国で下船し歩いて伊都国へ行ったのか」疑問とされていた。私は下記の用に解明した。

 魏の船はやや大型の船、伊都国にはそれを長期停泊させる場所がなかった。つまり大嵐が来たら船が破壊されるおそれがあった。しかし末廬国には「安全繋留の場所」があったのだ。

 それは呼子湾最奥の現「松浦町」である。ここは「湾」とは言え、湾の入り口が加部島で塞がれ大波が侵入する事はない、安全な繋留場所なのである。

 次に末廬国は「松浦半島」と普通比定されているが、魏志の中で「四千戸」でこのような広範囲が一国であったとするのはやや不自然である。「末廬国」は現「松浦町」あたりの小さい範囲であったと、私は確信する。
 
(参考 伊都国→千、伊都国→千、奴国→二万、不彌国→千、投馬国→五万、邪馬台国→七万)

            

 
 
陸路が不十分な当時、船は有力な輸送手段で、多数存在したはずであるが、船の出土は驚くほど少ない。推測する所、その理由は廃船は絶好の燃料で、燃やされてしまったためと思われる。

 とりわけ、時代は弥生末期、場所は九州北部か東岸部という制限を加えれば、私のと乏しい知識ではたった一点しかない。その一点で全体を知る、というのは余り信用すると間違いの元であるが、まあ無いよりはまし、と言うところで紹介しておく。

 2004年、昔の伊都国、現在の糸島市の潤地頭給遺跡で、二世紀末の準構造船の部材が出土した。

 出土したのは、丸太を刳りぬいた船底部3点と舷側板1点で井戸枠に転用されていた。船底部のうち一点はクスノキ、他は杉であった。

 欠損部を補って復元したものは上図のようになる。準構造船と言うのは、古来の丸太船に舷側板を張り付け、積載量を増やし、波の侵入をある程度減じたものである。

 しかし、十分な密着技術はなかったと思われるので、船が丸太船部分を超えるほど沈んだら海水が侵入し、船は沈没したと思われる。

(潤地頭給遺跡のこの出土を解説するサイト)     )

 つまり積載量は丸木船のライン以下である。(図の下側の線)
 復元された船の長さは5〜6m、幅は65cm。細長い。
 肉厚は丸木船部では4.5cmである。細長い船だ。

 航海で最も恐ろしいのは今も昔も嵐に遭遇することである。嵐が来たら今なら、丈夫な港へ逃げる。大型船は沖へ逃げる。あるいはクレーンで陸上へ上げる。
 
 しかし昔の港は、ときたまある「天然の良港」へ逃げ込めば良いが、そんなところは滅多にない。どうするか?クレーンはないから人力で陸へ(多分多くは砂浜へ)引き上げる。それが船の破損を防ぐ唯一の方法である。

 余り小さい船は積載量が少なく不便である。人が何人集まっても引き上げられないようなものはダメだ。ある程度大きく数人で砂浜へ引き上げられるサイズでないとダメだ。

 たまたま出土した上記がそのサイズであることに注目して欲しい。

         
 
旧前原市教育委員会は、この程度の船で、対馬へ行き、大陸へも渡ったとしている。海がおだやかならいいが荒れたら怖い。

 弥生人は被害対策を講じた。持衰(じさい)という風呂に入っていない人間を乗せ、海が荒れてきたらこれを海へ放り投げた。とにかく命がけだ。(魏志倭人伝)

 ただし、それで波が収まったという記録はない。
 魏志に書かれている問題のコースで考えて見よう。

 不彌国(福岡の少し東)→投馬国(西都市)の距離は最短コースで約400キロである。最短コースと言うのは、沿岸航法ではあるが、湾や入り江は岸沿いに走るのではなく、やや沖を走ることになるが、岬から岬へ一直線にはしる最短コースである。

 400キロを20日で 走行だから、1日20キロである。夜は陸上で過ごした。漕いだ時間は8時間とすれば、時速2.5キロとなる。陸上を早足で歩く速度は時速5キロの半分の速度だ。

 重く効率の悪い丸木船だ。まあ時速2.5キロは妥当な数値だろう。
 北九州〜邪馬台国は、邪馬台国のメイン海路である。東海道五十三次のように適当な間隔で、宿場があった可能性は多分にある。

 投馬国〜肝属川河口(邪馬台国の港と見なす所)の距離は140キロ、これを10日で走行したのだから、一日14キロ、時速1.75キロである。

 太平洋の荒波をモロに受ける所だから、速度が落ちたのか、あるいはそんな細かいことは書かなかったのか。

        邪馬台国の良港

 
 次に船の利用でコワイもの、について考える。それは勿論大波である。
 一度でも台風の時の大荒れの海を見たことのある人ならば「こりゃ頑丈な港以外にある船はメチャクチャになる」と言うことが実感出来るだろう。

 本論で「邪馬台国の港」と見なしている、肝属川の河口を見て頂きたい。
 右3枚の航空写真(Yahoo)、クリックで拡大写真が見える。@、A、B、の順に高度を下げての写真である。

 河口の北から小川が河口の所で合流している。これは志布志湾の海岸砂丘の後ろ側となり大波が避けられる「絶好の港」の理由である。

 現在でもプレジャーボートらしいものがある程度見られるが、船が唯一の交通手段であった古代には遙かに多くの船がここに繋留されていたに違いない。


 
            投馬国の良港

 九州東岸、特に延岡市、日向市より南は、海岸線がノッペラとしていて、おまけに太平洋にモロに面しており、台風でも来たらすごい波が打ち寄せる所である。

 天気予報のない古代でも台風が近づいた雰囲気の時には航海はしなかったであろうが、問題は繋留してある多くの船である。天然の良港がなけらば、破壊されてしまう。これは大事件である。

 延岡以南の海岸で、「天然の良港」地形は、私が見たところ、肝属川河口以外にもう一箇所、一ツ瀬川河口がある。

 ここは海岸砂丘の背後に、大きな水域がある。説明不要。地図を見ていただければ、容易にご理解頂けるであろう。

 この約10キロ上流に投馬国(西都市)がある。

 九州南東海岸沿いでは、戸数七〜八万の大国はいずれも「天然の良港」を持っていたのだ。
           

    不彌国の良港(邪馬台国へ行く北九州の起点港)

 もう一箇所、記録にははっきりとは書かれていない港がある。
 
 それは魏志の旅程では、「使者は奴国から東へ陸路百里行った不彌国で船に乗り、計30日の船旅をした」と書いている。

 単に「不彌国」としか書いてないが、間違いなく不彌国には立派な港(天然の良港)があり、そこが遙か南方の邪馬台国への起点となっていたに違いない。

 一体その「不彌国」とはどこであろうか?

 手がかりは二つある。一つは「不彌国」とおぼsき地域を地図上で(出来れば現地調査がいいが)調べて、天然の良港の地形になっている場所を捜すことだ。

 もう一つの手がかりは、古事記などに書かれている神武東征の途中、「岡田の宮」にしばらく逗留しているが、その岡田の宮が、邪馬台国への航路の起点港の可能性がある、という推測である。

 この二つの手がかりを満たす場所がある。それは右図、川ではなく深く内陸へ食い込んでいる洞海湾である。場所は関門海峡の少し西である。

 この湾は今でも良好な港であるが、その奥部に「岡田の宮」が現存する。

 但しこの岡田の宮も古事記の一つの比定地であり、洞海湾も見るからに人手が加わっており、余り自信を持って断定するわけには行かないが、まあかなり有力な「邪馬台国航路の北の起点」ではないかと思う。

 つまり「不彌国」はこのあたりではないか、と思える。

              
       不彌国の良港、洞海湾(NO.2)

 上で書いたが、現在の洞海湾の地図は余りにも人工の工事がなされているように見える。

 しかし古い地図が見つかった。公表されたのは、野知潤一氏で、あった場所は八幡製鉄所だそうだ。お礼を言いたいが方法がないのでここでお礼を言っておく。

 この地図の作製年代は不明だが、鹿児島本線、筑豊本線もあるので、戦前の昭和か大正時代のものではないかと思う。

 古い地図と言っても邪馬台国時代からは1600年以上経っている。素直に当時の地理とは言い難いが、少なくとも人手は加わっていない。

 拡大して見れば水深を示す等深線は書いてあるが、これはデタラメである。

 ここは干潟で水深は浅い。しかし小舟が嵐を避けるには絶好の地形である(説明不要)。 古代で天然の良港であったことには間違いない、と思える。

 つまり邪馬台国時代の北九州の起点港であり、魏の使者が不彌国まで歩き、船に乗ったのはここであり、神武東征船団が、わざわざ遠回りして長期滞在した、「岡田の宮」もここに違いない、と思う。