4,  試作    日本古代史年表  
BC
 邪馬台国(天皇国)の原型は大隅半島で西暦紀元前から芽生えていた。

57年
 倭国の国名、及び倭国の人間(使者)が初めて中国の記録に現れる(後漢書

 この年に朝献をし、金印をもらった。しかしその国名は多分言葉がよく通じないための誤解と推測されるが、「倭奴国」と記録されている

 その「倭奴国」の位置は「倭国の極南界」と記録されている。「極南界」とは大隅邪馬台国と解釈するのが妥当と思われる。

200年〜
 200年頃から邪馬台国人が奈良へ進出をはじめた。

 その目的は「丹」の採取であったが、そのため邪馬台国は奈良の事情をよく知ることになった。
 
 彼らの墓はもちろん大隅の古墳文化を踏襲した。このことが後に「邪馬台国畿内説」を生み出すことになった。

240年頃  
 魏の使者が古日向(後の大隅)のヤマト国を訪れた。
 
 魏志に従来のものよりも遙かに詳しい「倭人伝」を記録した。
 
 彼らはヤマト国を「邪馬台国」と記録した。
 
240年代の終わり頃  
 卑弥呼が死ぬ。そして大きな立派な墓が造られた。径百余歩。その前方後円墳は後に畿内で大型墳墓の規範となった。

266年  
多分壱与からのものと思える朝献があった。これを最後に当分中国史に倭国の名が出ない。(朝献が途絶える。)

270年頃〜  
 古日向のヤマト国が奈良への遷都を決行した。(神武東征)

 国の主力が引っ越した跡(大隅)には、狗奴国が進出してきて大隅にあった天皇国は消滅した。

 270〜413年  
朝献が途絶え中国の史書にも倭国の記録はない。

 もちろんこの約150年間は、奈良を根拠とした大和朝廷(古日向のヤマト国が発展した政体)が全国制覇の勢力拡大に専念していたのであろう。

413年
 朝献再開、贈り主は天皇。安定した大和朝廷が完成していた。

 この天皇が誰であったのか、確かでないが、15〜17代天皇と推測されており、初代神武天皇の即位を270年頃とすると、わずか150年ほどの間に、15代もの天皇が在位したことになる。

 これは不自然。そこでは「欠史八代」説が正しいと思える。