魏志以外の諸現象を見ても、
 重要な点で上記比定地に整合する現象がある
 
この「大隅邪馬台国論」を確認するために、肝属川河口を訪れた時、まさにその河口、私が邪馬台国の港と目していた所に「神武天皇東征出発地」と言う記念碑を発見し、仰天した。「発見した」のは私がよそ者
だからで、もちろん現地では誰でも知っていることだった。

 この「神武天皇東征出発地伝説」は事実の可能性がきわめて高い。それは日本古代史を重要な点で解明するからである。その詳細は下記である

◎序論で述べたように、奈良にあった「大和朝廷の前身の天皇国」は、中国名「邪馬台国」倭名推定「ヤマト国」であった。

◎ しかし
魏志に書かれている邪馬台国の場所は、「絶対に奈良ではない」

◎ 
その場所は、「遷都(神武東征)以前にヤマト国があった場所」言い換えると「神武東征の出発地」である。

◎ その地ヤマト国は「天皇家のふるさと」ととも表現出来るし、「九州のほぼ全域を支配下に置いていた国」でもあるし、「古くから中国との交流をはかっており、魏の使者が遠路訪れた国(魏志倭人伝に書かれている国)」である。

◎ 個人的な感想を言えば、最初から魏の使者が「水行十日」で到着したのが、この肝属川河口と見ていたので、そこが「神武東征のの出発地とは!!!邪馬台国の中に「天皇国」が初めて出た「発見」であったのだ。

{写真説明}

 肝属川河口に建つ「神武東征出発地記念碑」 建立は1940年(紀元2600年)


 
ただし中国側の言う「邪馬台国」は鹿屋市から肝属平野あたり、であったのに対し、日本側の言う「日向の国」は、現在の宮崎県と鹿児島県(島嶼部を除く)を合わせた国で、九州ではとりわけ広大な国であった。

 故に、邪馬台国=古日向国とするのは正確ではない。

  簡単に言えば「九州」と言う名が出来ると同時に、この「古日向」は消滅し、現在の宮崎県=日向となった。
 その時期が何時か? 残念ながら私の知識にはない。古事記の時代(八世紀)には、まだ古日向であったことは確かだ。

 いくら古代とは言え、この日向国の中が更に細かい地名があったのは確かであろう。しかしその研究は困難であろう。

 その日向へ魏の使者が来て、古い国名を記録している。

 その一は「ツマ国」で、これは今の西都市、ツマと言う地名が現存する。

 その二は、「ヤマタイ国」で、この地名は現存しない。ただし「ヤマタイ」とは倭名「ヤマト」のなまった発音の可能性大である。だとすれば奈良へ転じても「ヤマト」を使った可能性はある。

 その三は「クナ国」で、その場所は全く記録されていないが、古代で、しょっちゅう戦争をした国が、遠くであるはずはない。墓制の違いなどから、クナ国は薩摩半島か?という予測は可能である。

 邪馬台国の敵は大和朝廷の敵、クナ国は後の「クマソ」か、と思えるが深入りするほどの知識はない。


 神武東征の時期は、やはり正確には分からないことである。しかし私は、240年ごろ魏から使者が来ているが、その後、あまり永く邪馬台国がこの地にあったとは思えないので、270年ごろに神武東征があったのではないかと思っている

。 ◎ ならば、
「邪馬台国の引っ越し」と「神武東征」が同一事件となる。神武東征伝説は記紀以外にも、そのルート上の伝説は数百という規模で現存する。

 大隅に限らず、九州邪馬台国説ならば、後に「奈良への引っ越し」は必須であり、そのような大事件が「伝説にも残らない」などと言うことは、あり得ないことである。従って、伝説の面から見ても「邪馬台国の引っ越し」と「神武東征」は同一事件と断定してよいであろう。


 
 
         Z、本論の正否を証明する方法

1、「大塚」の造成年代を科学的な方法で測定する。

2,唐仁古墳群他肝属平野の古墳群の多くが、邪馬台国歴代の墓、初期天皇家の国の古い墓地群と言う目で調査する。
 現に弥生時代のものが沢山出ているのだが、「辺地なので文化の伝搬が送れたため」と解説されている。

、ともかく「大塚」の石室に入り、石棺を開けてみる。

4,鹿屋市周辺の遺跡を邪馬台国の地という目で調査する。(王子遺跡など)