魏志倭人伝の中で、邪馬台国の位置を知るのに参考になる12の記述

(1)不彌国(福岡のすこし東)からみて遙か南方に邪馬台国がある。

(2)不彌国から南へ水行二十日の所に投馬国がある。

(3)その投馬国から更に南へ水行十日で着いた所(邪馬台国の港)から、更に陸行一日の所に卑弥呼が住んでいる都がある。

(4)邪馬台国は海に接している。

(5) 行程から考えるとこの国は、中国の東冶(今の福建省)の東にある。(注=福建省はほぼ北緯26度、鹿児島県は31.5度、約500キロの誤差であるが、当時の全くの推測なので、やむを得ないか)

(6) 丹がある。

(7)真珠青玉が出る。

(8) 邪馬台国は北に伊都国を置き諸国を治める。(注=当然伊都国の南に邪馬台国がある)

(9)気候温暖、冬でも野菜が出来る。

(10)径150m程度の卑弥呼の墓がある。

 当時の中国の短い長さの単位は「歩」であった。これは日本の一歩とは違って、左右両足の歩幅である。つまり日本流の二歩である。古来この「一歩」は、145cmとされている。「径百余歩」とはもちろんあまり正確な測量値ではないが、150m〜160mぐらいの見当であろう。

(11)邪馬台国は古くから朝献をしている(歴史が長い)。また、立派な墓を造る文化を持っていたようだ。故に邪馬台国歴代の墓(古墳群)が現存する可能性大である。

(12)女王国から東へ海を千余里行った所に国があり倭人が住んでいる。しかし彼らは女王国に属さない。

      左 の 原 文


 (1) は(2)(3)の総合判断

 (2)(不彌国から)南至投馬国水行二十日

 (3)(投馬国から)南至邪馬台国女王之所都水行十日陸行一日

 (4) 今倭水人好○没捕魚蛤

 (5) 計其道里当在会稽東治之東

 (6) 以朱丹塗其体如中国用粉也   其山丹有

 (7) 出真珠青玉(青玉が何かは不明)

 (8) 自女王国以北特置一大卒  常治伊都国

 (9) 倭地温暖冬夏食生菜

 (10)卑弥呼以死大作塚径百余歩殉葬者奴卑百余人

 (11)自古以来其使詣中国皆自称太夫

 (12)女王国東渡海千余里又有国皆倭

 上の12条件全てに一致する地を捜す。それが邪馬台国だ
@ 条件(1)、大体の位置の見当をつける。

すなわち邪馬台国は、北九州から見てはるか南方にある。

A 条件(2)投馬国の位置。

原文からして、使者のコースは、福岡の東部から出発して、関門海峡と通過し九州東岸を南下したに違いない。(素朴な読解)

そしてもちろん東岸を行き過ぎることはあり得ない。おおざっぱに見て、九州東岸の2/3位の所に、戸数五万戸と言う大国,投馬(ツマ)国があったのだ。

 
投馬国は現在の西都市である。理由は次の3点。

1.その位置が魏志倭人伝に書かれているとおりの場所にある。すなわち「九州東岸の約2/3の所にある(合計30日水行南下のうち20日行った所)」

 もう少し詳しく言えば、九州北部から西都市までの距離は、約400キロ、一日の走行距離は20キロ、夜はもちろん陸上で休んだ。一日8時間労働とすれば、時速2.5キロである。

2.「
ツマという魏志時代の古い地名が多数現存する。現在、妻や都万という漢字で書かれ、西都市の至る所にある。

3.西都市には古墳が多数あり古くから栄えた地であることは明らかだ。


投馬国までの所で、船の速度の見当はついたが、その割合(20キロ/日)で進むともう九州南端佐多岬が近くなり大国が存在出来る地形ではない。

大国が存在出来るような地形はかなり手前の肝属平野が南限である。

B 条件(3) 邪馬台国の位置

 肝属平野には肝属川が流れており、その河口には北から小川が合流しており、小舟の繋留には絶好の天然の良港となっている。

 ここが邪馬台国の港として大いに期待できる所である。
この付近にはここ以外には天然の良港は見当たらない。

 使者は水行十日でここに上陸した。投馬国(西都市)からの距離は140キロ、一日の平均走行距離は14キロとなり、前半に比べるとかなり遅くなっているが、もろに太平洋の荒波を受けるコースであるから、速度が落ちたのか、あるいはその位の誤差は無視すべきなのかも知れない。

 
ここから陸行一日の所に卑弥呼の都があったのだ。「昔の大集落は現在では大都市になっている」という可能性から推測すると、そこは現鹿屋市の可能性が非常に高い。肝属川河口から約25キロ、「陸行一日」の距離でもある。

 
当然鹿屋市に弥生時代の大規模遺跡が存在するはずであるが、問題は古今おそらく、だれ一人として、この地が邪馬台国であったと思う人はいなかったことである。

 掘ればあちこちに遺跡の様相があったであろうが、人はそれに注目することなく、都市を拡張し、飛行場を作った。しかし、1981年、
鹿屋市王子町で道路工事中に弥生時代の大規模遺跡が現れ、初めて本格的な発掘調査が行われた。その発掘調査報告書はWEB上で公表されている。ぜひご覧いただきたい。(写真=鹿屋市の航空写真と王子遺跡の位置
画面クリックで拡大)



 私論からすれば、これこそ「魏志に書かれている邪馬台国中心部の一部、卑弥呼の都の一部」である。この偶然の発掘調査がなければ、1700年前の邪馬台国の記憶は、危うく消滅する所であった。

                                                                                                              





























 卑弥呼の都の現在の姿


       クリック拡大
                                                                 王子遺跡発掘調査報告書      
C 条件(4)(5)(7)(8)(9)邪馬台国の範囲

 当時「正確な国境」があったはずがないが、諸事を考慮して邪馬台国は大隅半島を横切る範囲、つまり錦江湾沿岸から鹿屋市、肝属平野一帯と予想される。

 もちろんこの地は東も西も海である。条件のうち(4)、(5)、(7)、(8)、(9)に一致する。

 ここで早速疑問が生じる。それは「前記では、邪馬台国は「日向の国」としていたではないか。大隅半島は日向の国ではない。まあお隣だから「大間違い」とは言えないかも知れないが、ともかく「大隅は日向ではない」と言う疑問である。

 この件については冒頭の「要約」の所で詳しく述べた。
簡単に言えば昔は大隅も日向国であった

D 条件(6)邪馬台国は丹を持っていた。

 
 魏志は「山には丹がある」「人は丹を体に塗る。それは中国人が白粉を塗るようなものだ」と記しているが大隅、あるいは九州全体を見ても、丹が出た気配はない。

 学者によってはこの「丹」は「赤土」と解しているが、邪馬台国は丹を中国皇帝への贈り物として持っていったこともある。それが「赤土」だったら、使者は生きて帰れなかったであろう。

 畿内論者は「だから邪馬台国は九州ではないのだ。畿内の奈良ならば丹が採れるのだ」と九州説否定の材料としている。一見、この「大隅では丹が出ない」という事実が、大隅論を否定するかのようである。

 しかし、ここまで大隅論が正しそうであれば、何とか丹の問題も、仮説ぐらいは出なければならない。

 
邪馬台国の行動範囲は、遠く、楽浪郡(帯方郡)まで及び、更に中国内陸部にあった皇帝の都、京都(今の洛陽)までも朝献を持って行っていた。その事は魏志の伊都国の所に書いてある。

 伊都国の港から王が「京都(洛陽)帯方郡(正確な位置については諸説あり。ピョンヤン付近?)諸韓国へ使いを詣らせた」とある。

 実は私も信じられなかった。その昔、九州から洛陽まで行くとは!考えられなかった。島伝い、海岸沿いの船旅は一応予想できる。人力推進の丸木船、大変だろうが漕ぐのは船頭で、役人は座っておればよい。

 しかし洛陽はかなりな内陸である。西安も近い。役人も歩いたのか?馬か?まあ余り考えて想像ばかり書いても仕方ない。

 ともかく、あの大昔、九州から洛陽まで行ったのだ。

 しかも、最初の記録は西暦58年、生口160人を連れての旅であった。

 
 
欲しくてたまらない国家的宝物、丹が奈良で採れるのなら、奈良へ採りに行った、と言うことは十分考えられることである。邪馬台国本国は、九州南端にあったのだが、邪馬台国の活動の中心は北九州にあった。奈良まで宝物を採りにゆくのは、驚くに当たらない。

 しばしば誤解している人がいるので、念のため記す。地図をよく見て欲しい。「水行三十日陸行一月」の記述で。九州説は極端な短絡、畿内説なら納得できる」と言う人がいるが、北九州から南九州(大隅)と、北九州から奈良、はほぼ同じ距離なのである。

 むしろ丸木舟のような重くて人力で進む船は、波があると極端に速度が落ちる。九州東岸は波が荒い。容易なことでは前進が出来ない。瀬戸内海のように穏やかな海の方がよほど短時間で行けた、と思える。奈良まで丹を採りに行くのはそれほど困難ではなかったはずだ。

 大隅、奈良の繋がりを強く伺わせるのは、後に邪馬台国が奈良へ引っ越した大事業であった。倭国の政治の中心となるために、近畿へ引っ越したのならば、行く先は浪速、でも京都でも名古屋でもよかったはずである。

 それが一途に
、奈良を目指したのは、第一に大隅邪馬台国は奈良の事をよく知っていた。第二に、奈良には天皇一行の移住を準備万端整えて待ち受けていた集団があったからだ、としか考えられない。

 その人々の中心は、丹最終のために多数移住した大隅人であったはずだ。その地の事情がよく分かっていたからである。また、地元勢力(大物主命)も神武天皇を歓迎していた様子も古事記にある。

 よく知らない地へ重要人物が移住するなんてことはあり得ない。奈良には必ず天皇を受け入れる用意ができていたはずである。

 
「何故奈良に天皇を歓迎する集団が居たのか?」という疑問と「何故丹が出ないはずの大隅が丹を持っていたのか?」という二つの疑問を一挙に解決する解答は上記一つしかない。