本論

 魏志倭人伝などを分析し邪馬台国を見つける


T、魏志倭人伝の微細だが重大な間違いの指摘


 

 魏志倭人伝は単なる旅行記である。

 それは旅したコース、具体的には陸行(徒歩)か船か、向かった方向、距離(日数で表すこともある)、途中で訪問した国名、その重要人物名、国の人口、および見聞した印象深かったこと、等が描かれているだけの話である。
 旅行記は今も昔も(この倭人伝も)変わりはない。旅行記が複雑難解であるはずがないのだ。

 それが数百年に亘って解読出来ない「歴史的難解文書」であるのは全く妙な話である。簡単、単純に理解すればよいはずである。
 時計も、距離測定器具もなかった当時であるから、容認できる範囲での誤差はやむを得ないが、どこかに重要な間違いがあるのではないか、と疑ってみる必要がある。
 
 多分写本の過程で本当に微細な間違いだったのだが、
この旅行記の解釈には、重大な誤解を引き起こす間違いがあった。その間違いの可能性については江戸時代以来、複数の学者が指摘していた事であるが、多くの研究者はこの間違いに気づかず、この古くて貴重な旅行記を混迷状態にしてしまい、ついには「魏志倭人伝デタラメ論」まで登場するという、言わば「オハズカシイ事態」にまで至っている。

 
その一カ所の間違いを訂正すれば、魏志倭人伝は分かりやすい話である。それはごく普通の旅行記である。そしてその中には、邪馬台国の位置を示唆する記述は、12項目有り、この12項目に該当する場所を求めれば、邪馬台国は比較的簡単に見つかるのである。

 その一カ所の「微細だが大変な間違い」とは、
「陸行一月」の「月」である。これは正しくは「日」で「陸行一日」であった。この間違いの指摘は、私がここで始めて指摘するのではなく、江戸時代から」複数の学者が指摘してきたことである。

 本論は「陸行一日」として、上記「邪馬台国の位置に関する12項目」に一致する地を求め、その比定地を実際に踏査し、比定と一致する基本的に重要な証拠を確認し、「邪馬台国はここに違いない」とした論である。

 しかし、ともかく信頼すべき重要な文の一部を「間違い」とするわけであるから、そう簡単に済ませるわけにはゆかない。まず第一に、以下でその間違いだとした根拠を書いておく。


 国名を表す「日向」や「ヒムカ」について





 日向国は少なくとも7世紀より前は、当時は現在の宮崎県と鹿児島県を一緒にした広大な面積の地域のことであった。



 以下の文中で使っている「日向」おおむねその「古日向」のことである。



 その発音は「ヒューガ」ではなく「ヒムカ」と呼んだ、とされる古い発音である。しかし現在でも好みで「ヒムカ」という発音が使われることがある。



 倭国側では、「日向」より細かい地名が存在したことは予想出来るが、詳細は不明である。


 
 一方魏志は、倭名「日向国」の場所に、「投馬国」と「邪馬台国」の存在を記録している。



 確実とは言えないが「狗奴国」を薩摩半島と比定すれば、これも倭名「日向国」の中に含まれることになる。つまり「邪馬台国」と「狗奴国」の抗争は、倭名「日向国」の中で行われたと言うことになる。    (参照 P。44 P。46)

◎ 「陸行一月」を間違いとする根拠

 当時は陸地の道路は未発達であった。陸地の道は往来が多いところで、人が踏み堅めで出来たと思われる。人通りが少ないとすぐ草木が生えて、道が消えた。
例えば、末廬国と伊都国の間などは、当時でさえもかなり交通量があったと予想されるが、それでも「草木が繁茂して、前を行く人が見えない」と様子が書かれている。

 九州全体で見ると、陸路があった場所は限られていた、と思われる。道のない所を歩くのが、どんなに難しいか、時間がかかるものか、つまり「ヤブコギ」がどんなに時間がかかるものか、すこしでも山登りなどする人ならば、容易に理解出来ることだ。

 当然、食料など、旅に必要なものを持ち歩かねばならない。
中国から遠路やってきた使者が、一ヶ月に亘るような生死に関わるほどの困難な陸路の旅が出来るはずがない。海路一ヶ月も大変ではあるが、客人は座っておれば船頭が運んでくれる。

 不彌国から水行したのは、陸行は道がないため、その他の理由で旅行が困難であったからに他ならない。

 
「陸行一月」の直前までは、行く先の方向、距離又は所要日数、到着地の国名、人口又は戸数、交通手段(陸行か水行か)、その地の主要役人の名前までが克明に記録されている。

 それが「陸行一月」という所では、この不可能に近いと思われる大旅行の内容が全く書かれていないのだ。

 つまり「陸行一月」の所から、一体どちらへ行ったのだ?途中どんな国があったのだ?などなど全く書いてない。大げさに言えば「文章作法」がこれまでとは全く異なっているのだ。

 こんなことは、この丁寧に書かれた文章の中ではあり得ないことだ。これは「読解力の問題」でもある。よく読んで頂きたい。

 

 
普通ならば「変な文章、間違った文章」の指摘は出来ても、「それでは正しくはどうなのか」と言うことは分からないものである。

 しかしこの当時、あるいは現代に近い頃まで、本の複製は人手による写本であった。漢字の「日」の下が少し出るだけで「月」になる、つまり「日と月が類似文字」であることを思えば「写し間違え」の可能性が大いに予想出来る。

 
正しくは「陸行一日」ではないだろうか?ならば、意味はよく分かるし、文意も自然である。最も大切なことは、書かれている通りのルートを辿ればある大都市にたどり着く。「昔の大集落が現在の大都市になっている」というのは最も普通の「都市の歴史」である。

 「水行十日」で着いたところは邪馬台国の勢力圏内、邪馬台国が日常的に使っている港であった。

 そこには記録するほどの集落はなく、記録するほどの役人もいなかった。そこから歩いて「一日」の所に卑弥呼が住む都があったのだ。

 繰り返しになるが、以上の指摘は私の発見ではない。誰が書いたものか記憶にないが、多分江戸時代の学者が書いていた意見である。