18, 唐仁古墳群の「大塚」詳細

「唐仁古墳群」という見るからに古い古墳群が東串良町にある。唐仁町という町も最近まであった。同系の名前、唐人町というのは他の地にもあり、「中国人が住んでいた」とか、ともかく中国との関わりを示す地名である。

 その古墳群の中に「大塚」と呼ばれている前方後円墳があり、当地ではこれが最大のものである。卑弥呼の墓の候補は規模の点においてこれしかない。他の古墳はサイズだけから見ても魏志倭人伝に書かれているものとは違う。

 この古墳は現在では相当に形が崩れ後円部の頂上には神社が建ち、その神社の廊下の下に石室の天井の石が露出している。元の古墳の領域はもはや明確ではないが、民間住居や田園が相当に食い込んでいるようである。第一印象は「かなり崩れている」である。


 (大塚の石棺は渡り廊下の下にある。つまり渡り廊下、及び右手の本殿が石棺を守るように建てられている) 



















(石棺の天井石、右手が本殿)

























(本殿の床下、
恐らく石館内の被埋葬者の頭部が本殿の下になっている)




















 それは学者アマチュアなど多数の人が「卑弥呼の墓候補」として熱い視線を注いでいる奈良の箸墓古墳の端麗な姿に比べると、むしろ「惨めな姿」と言える。名前も固有名詞とは言えないようなありふれた「大塚」と言う名で呼ばれているだけである。
  
 先ず魏志に書かれている卑弥呼の墓に関する文「卑弥呼以死大作冢径百余歩殉葬者奴婢百余人」について、二人の高名学者の解を上げておく。この辺りの説が通説と思われる。尚、両者とも邪馬台国畿内説を支持されている。

 
学者A「(1)当時はまだ古墳時代にはいっておらず。周溝墓の形式であったとみてよい。ところが(2)墓の径(さしわたし)が百余歩といい、巨大な表現になっているが、「百」は数の多いことの比喩にすぎない。また(3)我が国古代に殉死の風習はなかった

 学者B「この卑弥呼の大墳墓の記事は考古学者からは、ほとんど信用されていない。(4)四世紀の初め頃発生した前方後円墳に先立つそのように巨大な「円墳」は、北九州はもとより、近畿地方にも認められないからである。しかし、はたして、そういってすませられうであろうか。(5)古墳は、「畿内あるいは畿内を中心に」「三世紀中葉から四世紀前半のある時」、突然に発生したのである。古墳の発生時期がこのように漠然としかとらえられない上に、(6)発生期の古墳のほとんどがなぜ前方後円形もしくは前方後方形であるのかもわからない」

 「大塚」を卑弥呼の墓と予言すれば上の説の間違いは自明であろう。
 自明ではあるが、上の説が現在の「主力」であるのならば、念のため大隅論の立場から反論を纏めておくのも意味があるかも知れない。上の(数字)の順に書いてみる。

1)大隅では古墳時代に入っていた。(多分百年以上前から)

(2)正に「百餘歩」(正確には155m)の墓が現存する。それは「巨大表現」でも「数が多いことの比喩」でもない。

(3)「殉死の習慣がなかった」と言うのは「殉死の形跡が見つかっていない」と言うことではないだろうか。魏志にははっきりと文書で記録されている。どうもこちらを信用する方が常識的と思う。

(4)前方後円墳は四世紀に出現した物ではない。大隅には3世紀半ばにあった。まだ未調査だが大隅地方には計19基の前方後円墳があり、その内にはさらに遡る年代のものがある可能性がある。

(5)巨大古墳がそんなに突然発生するはずがない。大隅のものが畿内に伝承されたのだ。

(6)予想される通り、前方後円墳は「発生期の古墳」ではない。その前は円墳で、未調査だが大隅地方に多数現存するだろう。


 
 又、お隣の友好国投馬国(西都市を中心とする一帯)も同等な古墳文化を持っていたのは確かと思えるので、推定合計五百基以上の古墳が前方後円墳の誕生の歴史を物語っているはずである。それは決して「突然発生した」のではない。
 
 
以下は「大塚」の詳細である。 引用文は全て上記の「唐仁古墳群」(東串良町教育委員会、東串良町文化財保護審議会)及び、同名の「唐仁古墳群」(東串良町教育委員会、1993)による。
 
 当地では最も大きい墓なのでどの時代でも注目はされていただろうが、初めて文献に現れるのは、もう現代に近い天保14年(1843年)「三国名勝図絵」である


 内部の石棺の外部サイズまで精密に測量調査されたのは、多分昭和七年(山崎五十麿氏)であった。しかし石棺の蓋は開けられなかったし、他の人が開けた形跡もなかった。
 全長185m、円墳部を取り巻いて30メートル幅の周堀があるとされるが、平時は芝生で堀だとは分からないが、雨が降ると池になる。



 

(画面クリック拡大)




















大塚は竪穴式古墳で現在は上に神社が建てられ石室へ入ることは出来ないが、過去には入った人が何人かあり、精密な測量もされている。もちろん外部はよく調査されている。断片的だがその様子を上記資料から引用する。

1.石棺の下石と蓋石は一枚石でたんねんに鉄のみで細工された美しく大きな物である。
2,石室には入れるが、室内が狭く石蓋は非常に重いので現在まで開けられた様子はない。
3,前方部の低い前期の高塚墳である。
4,平地の上に築かれ、周壕の土を封土としている。
5,花崗岩の丸石を葺石として土の崩れを防いでいる。
6,後円部の中心が削れ、石室の蓋石が露出し、その上に神社が建てられている。
7,大塚古墳を中心にして放射状に百数十基が築かれた。
8,石室は花崗岩である。
9,寄生古墳がある。
10,石室の側面は割石を積み粘土で漆喰されその上に朱が塗られている。
11,棺外の北側に短甲が副葬してあった。
12,後円部径に対して前方部の幅が約半分と狭い上に、高さも現状では約6mも低い。

 形態はいわゆる柄鏡式に近い。後円部は高さが10m以上あるにもかかわらず、段築成の痕跡は認められない。埴輪は認められない。

石室及び石棺の概略(昭和7年、山崎五十麿氏)
石室の高さ84cm、長さ&幅 3.59x1.24m、
石棺 材質=硬質凝灰岩
 長さ2.68m、幅88cm、蓋石と下石を合わせた高さ0.7m

(私見)
1,大塚の径について
 この30Mの周堀はわざわざ拵えたというよりは、単に高塚部へ土を盛り上げる為に掘った跡に過ぎないようである。堀と呼ぶには極端に浅い。資料の「大塚の測量図」をご覧いただきたい。墳裾(造成時には平地の上に高塚を造ったはずなのでその平地の高さ)が図でどの高度になるのか、正確には分からないが、図の2m−2m20cmあたりと見ていいであろう。

 2m20cmの等高線とすると、堀の深さは36cm−26cmとなる。墳裾が2mラインとすると、堀の深さは16cm−6cmとなる。まあこんな正確な数値はむいみであろうが、ともかく幅30mの堀にしては極端に浅い。従ってこの円堀部分を墓の部分と見るか見ないかは今の所見解の相違となるだろう。尚、前方部には周堀(この場合は土地の窪み)は認められない。

 
周堀と見なければ「大塚」の径は155mとなり魏志倭人伝の「径百歩余(145m余り)」に完全に一致する。

 又、周堀を持つ古墳のサイズを言うとき、堀の幅を含めたサイズを「全長」、高塚部分のみのサイズを「墳長」と言うことがある。堀の問題で騒がずとも、「魏志倭人伝の時代には古墳の大きさは『墳長』で表した」とすれば、大塚は元々径155mで魏志と完全に一致していたのだ。鹿児島大学総合研究博物館の「古墳以外の墓制による古墳時代墓制の研究」(2007)の中では、「大塚の墳長は154m」とされている。
 

 
古墳のサイズのことで余りゴタゴタ書くのは無意味かも知れないが、ここでは「大塚」が魏志に書かれている卑弥呼の墓の「百余歩」に一致していることを述べたいだけである。1992年の上記の「唐仁古墳群」の中に、大塚の詳しい測量結果が報告されているので、少々長くなるが全文を載せておく。尚「1号墳」というのは「大塚」のことである。

 「1号墳は主軸がN−5度−Eとほぼ南北である。全長は、前方部の壕が明確でないために確定は出来ないが、前方部の東西にはしる道路を壕の端と想定した場合、墳長は140mとなり、壕幅を20mと考えて全長185mの前方後円墳の可能性が高い(ただし、前述の道路を墳丘の端と仮定すると墳長155m、全長195mとなる)。


 前方部は、長さ70m、最大幅約36m、後円部径は65m、くれ部幅28mを測る。壕は幅14−25mであるが、前方部の西側および南側は宅地等のために壕の痕跡をとどめない。従前は後円部のみ壕が廻っているものとされていたが、おそらく全周していたものと思われる。墳丘の高さについて見ると、後円部は墳裾から10.7mであるが、墳頂は大塚神社建立のため削平されており、もともとはもっと高かったものと思われる。前方部は4mである。壕の深さは現状で1−1.5mを測るが未調査のため不明である。後円部の西側の壕に幅5mの堤が見られるが、古墳を造った時のものか、後世に造られたものかは判断出来ないが、昭和10年に木村幹夫氏が実測されたものでもこの堤は図示されているので古くからあったものではないかと考えられる。しかしながら古墳造成時のものであるか、また用途については明かでない。

 1号墳の特徴としては、後円部径に対して前方部の幅が約半分と狭い上に、高さも現状では約6mも低いという点があげられる。形態から見ると所謂柄鏡式に近いものである。また、埴輪は認められないが葺石と思われる円礫が露出しているのが観察される。
 内部主体は竪穴式石室である」
 」
2,造成時期 
 本論では「大塚」は卑弥呼の墓候補は「これしかない」ので、その造成時期ははっきりしていて250年、誤差は2,3年以内である(卑弥呼の死後5年以内に墓が作られた、とする)。

 一方公表されているこの大塚の造成は「五世紀中葉」である。その根拠は二つあり一つは前述の通り「畿内四世紀型であるから畿内からのタイムラグを考慮に入れたため」と、「五世紀に多く作られた短甲が(胴部だけ覆う短い鎧)棺の横に置かれていた」状況によるようである。

 又「唐仁古墳群各所に弥生時代の物が出るが、これは辺地なので弥生時代が他の地よりも永く続いたものと見られる」という見解が付されている。

 
この地を邪馬台国と見た場合にはこの「五世紀鑑定の根拠」には容易に反論出来る。

畿内四世紀型」の問題は「大隅の古墳が畿内型の規範となった。従って遷都の混乱期を考慮すると、畿内型よりは百年以上古く三世紀の造成だろう」。

 「辺地だから弥生時代が永く続いた」という解釈は、大隅論では「正に弥生時代に作られた物であるし、邪馬台国は進んだ中国と交流していたので、この地は倭国の他の地よりも進んでいたはずだ」となるべきである。

 「五世紀の短甲」問題は「棺の外に一つだけ置かれていた、というのは副葬品としては不自然である。玄室内に入ることは可能であったので、はるか後世に不要になった昔(五世紀)の短甲を奉納したのではないか」などと容易に反論出来る。

 「短甲が一つだけ石棺のそばに置いてあった」という妙な奉納形式について、真相の究明は困難であろうが、可能性のある歴史展開を、小論「大塚神社の謎」で示している。


3,「大塚を中心にして百数十基が作られた」は間違いであろう。この古墳群の中では「大塚」が一番新しいはずである。

4,「石室の側面に漆喰が施され朱が塗られている」という部分の「朱」が、ベンガラか丹かの分析はされていないが、それが丹であれば大隅が丹を持っていた証拠になる。

 上記の反論も妥当性有りと自負するので、「卑弥呼の墓=大塚」の目で見る今後の調査を期待したい。